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-島歩き- 小豆島おもしろ草子

物語の最近のブログ記事

海姥

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海姥の話

「小豆島の伝説と民話」という本を読んでいると、「化け物話」というのがあった。
さしずめ「山姥(やまんば)」に対して「海姥(うみんば)」とでも言うべき話。

親子3人で、釣りに行った。そやけんど潮がわるうてな、魚がひとつも釣れんでな。
せで、山のさぶしいところに船をつけてな。「まあ、いっぺんあたろうじゃないか」というて親子3人が浜のへりで火を焚いてあたりょうりました。
そうしたところが白髪のおばあさんが、そりゃもうものすごいような声で「わたしもいっぱいあたらしてつかあせ。」と出てきたんじゃ。
こりゃあもう、なんじゃ。この婆さんはただもんじゃない思うて、親父が「さあさあ、お婆さん。あたりなされ。」いうて、どんどん火を焚いてな。兄のほうに
「はあ、いけすにな。めばるがおるがいや。お婆さんに取ってきてあげ。」
いうたんじゃ。そやけど、まだ一匹も釣れとらんのに妙じゃなあと思うたけんど、お父さんがいうから
「はい。」いうて船に乗ったんじゃ。
「お父さん、どこにおるんかいな。」
「なんじゃ、よう見つけんのか。お前、ちょっと見てやれ。」
いうて、弟を船に行かせたんじゃ。
「お父さん、わからん。魚がわからん。」
また弟がそういうもんやから
「なんじゃ、お前ら魚の一匹もよう取らんのか。どりゃわしが見ちゃろう。」
いうて船に飛び乗って、はやもう綱を外してな。
「そりゃ!船出せ!」
いうて急いで櫓こいでな。そしたらお婆さんの口が耳まで裂けて、ほてもう海の中に飛び込んでな。
「うらめしい。」
いうてな。やっぱり化け物やった。

この話は、瀬戸内の化け物話として他の地区にもあるようだ。
私が以前読んだ話では、お婆さんが乳を出して絞るとピューとお乳が飛んで、船にかかるとかかった所がジューッと溶けた。というものだったように覚えている。

以下次号

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桃太郎伝説その4

謎解き

武殻王伝説により、ほぼ桃太郎伝説の謎を解明することが出来た(と、思っている)
まず岡山桃太郎だが、これは出雲勢力を牽制するために行った、大和朝廷による中国地方の砂鉄資源確保の話が原型だろう。
古来より中国地方には良質の砂鉄が採取されていた。スサノオが出雲で退治したヤマタノオロチから出てきた「草薙の剣」は、天皇家の三種の神器のひとつであり、南北朝時代には名刀「備前長船」を作り出している。
百済から渡来してきた温羅(ウラ)一族が、当時の最新技術により優れた鉄器を作り出している事を聞いた大和朝廷は、危機感を募らせた。
なぜならば、中国地方には出雲の勢力があったからである。一応、大和朝廷に対して恭順の態度をとってはいるものの、出雲の力は強大であった。その出雲と温羅(ウラ)一族が手を結び大和朝廷に対して反旗を翻したとなると脅威である。そこで朝廷は吉備津彦に出陣を命じた。
吉備津彦は戦闘集団の「犬養(飼)部」と「鳥取部(ととりべ)」を率いて山陽道を進み、岡山に入る。
一方、弟の稚武彦命は淡路から讃岐へと進み、讃岐を支配していた讃留霊王(さるおう)に援軍を頼む。ここで、犬・猿・雉が揃うのだ。
讃岐から岡山に渡るには船で渡ることになるのだが、瀬戸内海には多くの海賊が出没していた。そこで稚武彦命は、讃留霊王軍が無事に岡山に渡れるよう海賊の棲家(鬼が島)を襲う。
これがやがて「香川の桃太郎伝説」となる。

二人の稚武彦

ここで「ん?変だぞ?」と思ったあなた。そう、変なのである。
話の年代として、吉備津彦の温羅退治が先で武殻王(讃留霊王)伝説の方が後なのだ。
後の世に登場する讃留霊王に、稚武彦命が援軍を頼むことなど出来ない。と、思うだろう。
ところが!である。私は、武殻王(讃留霊王)伝説の主人公こそ稚武彦命であると考える。
武殻王伝説を読み返していただきたい。武殻王は日本武尊の息子である。
日本武尊は古代歴史上のスーパースターで、九州の熊襲建・出雲の出雲建を倒し、相模の国では草薙剣(天叢雲剣)で草を掃い、迎え火を点けて荒ぶる敵を焼き尽くす。他にも全国各地で日本武尊の活躍のエピソードがあるのだが、歴史学者の間では、「日本武尊は各地の英雄話を集めた架空の人物だろう」と言われている。
その日本武尊の息子の中の一人に、稚武彦王の名前があるのだ!

吉備津彦の弟の「稚武彦」と日本武尊の息子の「稚武彦」。これはどういう事だろう。
私はこう思う。武殻王(讃留霊王)伝説は、吉備津彦の弟「稚武彦」が讃岐を平定し、吉備の国(岡山)に向かうため海賊を倒した(悪魚退治)話が原型にある(香川・桃太郎伝説にも繋がる)
その後、自分は吉備の国を治め、海賊退治に功績があった武殻王に讃岐国を治めさせた(讃留霊王伝説)
その後、日本武尊の物語が作られる時に、孝霊天皇の息子で中国地方・讃岐平定に功績のあった稚武彦を日本武尊の子供として登場させた。

こう考えると「岡山・桃太郎伝説」「香川・桃太郎伝説」「武殻王(讃留霊王)伝説」の謎がすべて解けるのである。

桃太郎伝説 完

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桃太郎伝説その3

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犬・猿・雉の正体

桃太郎の家来である犬・猿・雉については、諸説ある。
忠義・智恵・勇気の象徴だという説もあるし、風水でいう鬼門(丑寅の方角)に相対する猿・酉・戌の方角のことだという説もある。
しかし、吉備津彦が温羅(うら)一族を滅ぼすために大和朝廷から派遣されたとなると、戦闘軍のことだろう。
調べてみると犬に相当するのは「犬養(飼)部」と呼ばれる軍事集団のようだ。
元々は屯倉の守衛のために作られた軍であったが、その後有力な軍事氏族となる。
第29代総理大臣の犬養 毅(岡山出身)は、自ら「自分の先祖は桃太郎に従った犬だった」と言っていたそうである。
同じく雉は「鳥取部(ととりべ)」だろう。「鳥取部(ととりべ)」は元々、弓矢を使い鳥を捕獲していた部族だったが、やがてその優れた弓矢の技能により軍事集団へと姿を変えていったようだ。
『日本書紀』には物部守屋の近侍で、果敢なゲリラ戦を続けた鳥取部万の勇猛を記している。

問題となるのは「猿」である。『猿飼部』の楽楽森彦と紹介されている文献もあるようだが、そもそも『猿飼部』なるものの存在は疑問視されている。
そこで、いろいろと調べているうちに面白い伝説に当った。坂出に残る「武殻王伝説」である。

武殻王(タケカイコオウ)伝説

今は昔、西暦九十二年景行天皇の頃、土佐の海にエビのような姿の大魚が現れて、 船や人を飲み込み、暴れていました。それを知った景行天皇は日本武尊(ヤマトタケルノミコト) にその悪魚退治を命じましたが、日本武尊は自分の息子の霊子(武殻王・タケカイコオウ) にその役目を命じるように天皇に進めます。悪魚退治を命じられた武殻王はさっそく土佐に向かいますが 、大魚は讃岐の国(香川県)へ移動していました。大魚を追いかけて讃岐にやってきた武殻王は、船を作り兵士を集め、いよいよ大魚との戦いが始まりました。しかし大海を自由に泳ぎ回る大魚に、ついに武殻王ののった軍船は飲み込まれてしまいます。大魚の腹の中で魚の毒気にあてられてぐったりしている兵士達の中、武殻王だけは元気で、何とか大魚の腹の中から脱出する術を考えます。そして火をたくことを思い付き、火に焼かれてもがき苦しむ大魚の腹を切り裂いて、ついに脱出に成功します。武殻王の乗った大魚の死骸は福江の浜(坂出市福江町)に流れ着きました。しかし兵士達は皆魚の毒気により、半死半生です。そこへかめに入ったきれいな水を持った子供があらわれ、武殻王に差し出しました。武殻王はそれを飲んでみて、その甘くておいしいことに驚きました。武殻王はその水を兵士達にも飲ます為に、その水のある場所に案内してもらいました。そして兵士達は皆その水を飲んで元気を取り戻したのでした。武殻王に水を持ってきたのは、横潮明神という神様で、兵士達80人が蘇ったということで、その清水は八十場(八十蘇)の清水と名付けられました。大魚の亡骸は魚御堂をたてて供養しました。
さて景行天皇に大魚退治を認められた武殻王は、褒美として、讃岐の土地を与えられ、城山に館を構え、讃留霊王となります。つまり讃岐に留まる霊王という意味です。{讃留霊記の諸本(漢文)を抜粋}
 晩年、海の見える館に住むことがいやになった讃留霊王は、城山から矢を放って、海の見えない新しく館をたてる場所を探します。矢が突きたったのは、東に城山、南に象頭山の山並、西に善通寺の山々、北に飯野山のある、広々とした、讃岐平野の真ん中でした。しかし矢の突きたったところはまだかすかに海が見えていました。そこでその矢の突きたった場所から少し北によった所に新しい館を構えることにしました。その場所は古代寺院法勲寺跡と伝えられています。
 矢の突きたった石はその後は矢塚と呼ばれ、大切にお祀りされました。しかし現在は道路拡張工事の為、矢塚は讃留霊王神社境内に移されています。
 その後、讃留霊王は百二十四歳まで長生きし、その亡骸は現讃留霊王神社境内にある讃留霊王古墳におさめられたといわれています。 讃留霊王神社ではその古墳を御神体として、今も地元の人々にあがめられています。 (飯山町ホームページより)

これは面白い。何が面白いかというと、武殻王が日本武尊の息子ということである。

以下次号

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桃太郎伝説その2

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温羅(うら)

さて、鬼のモデルとされている「温羅(うら)」だが、百済からやって来た一族と言われている。
記紀では、極悪非道の者達で大いに住民を苦しめたために、住民からの要請により吉備津彦が退治したことになっているが、岡山に残る風土記によると全く逆である。
温羅(うら)は温厚な性格で住民に慕われ、当時のハイテク技術であった「製鉄方法」や朝鮮半島の文化を持ち込み、吉備地方の発展に大いに寄与したことになっている。
そのため別名「吉備冠者」とも呼ばれていた。
字からも「温」は「あたたかい」とか「おだやかな」という意味であるし、「羅」を中国や朝鮮半島をさすとすると「朝鮮半島からやって来たおだやかな人」という意味にもとれる。

ところで、全く関係ないのかもしれないが、小豆島には一人称として自分のことを「ウラ」と言う方言がある。三豊市でも使われるそうだ。
調べてみると、一人称として「ウラ」を使うのは北陸地方の方言となっている。
このブログの最初の投稿でも書いたが、福井県池田町にある大野手比売を祀った「須波阿須疑神社」といい、何か小豆島と北陸とは関係がありそうだ。

それはさておき、岡山では「温厚な集団」とされていた温羅(うら)が、記紀ではなぜ「極悪集団」と記されているのだろう。このあたりが「桃太郎伝説の真相」を解くカギなのである。

以下次号

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桃太郎伝説

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桃太郎伝説

童話でおなじみの「桃太郎」
鬼退治で有名な話であるが、その真相に迫ってみたい。

本家の岡山県では、桃太郎のモデルになったのは「吉備津彦命」で、鬼ケ城というところに棲んでいた温羅(ウラ)と呼ばれる百済から来た一族を退治した話が原型だという。
一方、香川県では吉備津彦の弟の「稚武彦命」がモデルで鬼ケ島は女木島。
桃太郎が鬼を退治したので「鬼無」という地名があるという。
どちらも共通点は「第7代孝霊天皇の子供」というところ。

吉備津彦は当時の大和朝廷の四道将軍の一人として、異母兄弟の稚武彦と共に山陽道を平定。姉(一説には母)は、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)であり、箸墓古墳は彼女の墓とされている。最古級の大型前方後円墳であり、彼女自身シャーマン(巫女)体質で数々の予言をし、大きく政治に関わっていたことから、倭迹迹日百襲媛命を卑弥呼だとする説もある。

稚武彦は吉備氏の祖であり、吉備一族はその後も大和朝廷と連合関係を結ぶ。

犬・猿・雉

さて、桃太郎に登場する家来の「犬・猿・雉」である。
吉備津神社の社記では、犬養健命(いぬかいたけるのみこと)、楽々森彦命(ささきもりひこのみこと)、留玉臣命(とめたまのおみのみこと)を、犬・猿・雉に宛てている。
一方、香川では、備前・犬島の住人、綾南町の陶芸家猿王、鬼無の雉ケ谷の住人とされている。

以下次号

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プロフィール

紅雲亭 一葉
プロレタリア文学作家の血を引く佃煮屋さん。
読む人をして声を出して笑わせしめる天賦の文筆力を授かる。 その文章に根強いファンが増えるはず。

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